選奨土木遺産 西根堰

平成30年 西根堰開削400年

よどみなき流れと共に豊穣への願い


選奨土木遺産

 土木学会選奨土木遺産の認定制度は、土木遺産の顕彰を通じて、歴史的土木構造物の保存に資することを目的として平成12年度に創設されました。

 「西根堰」は、公募推薦により、平成22年度に選奨土木遺産の認定を受けました。


選奨土木遺産 西根堰

 近世初頭の農業土木技術の系譜を残し、地元住民の情熱に支えられ、現在地域学習に利活用されている貴重な農業土木施設群である。(土木学会選奨土木遺産ホームページに掲載)

福島県内の選奨土木遺産

土木学会選奨土木遺産ホームページ



西根堰の由来

 西根堰(にしねせき)という名の由来は、近世、伊達郡の中ほどを流れている阿武隈川を境に、川の東方42か村を「東根郷(ひがしねごう)」といい、西方半田山の麓の村々をふくめて40か村を西根郷(にしねごう)と呼んできた。

西根郷は、伊達郡のうち阿武隈川の西方一帯の呼び名であり、西根堰の名はこの西根郷の中にある堰として名づけられた。

 

 この西根郷と呼ばれていた地方に、近世の初期になって、水田開発が進められ、その用水のために堰が開削され、その水源を摺上山に発する摺上川から取水して、上堰と下堰という二つの堰がつくられた。下堰が早く元和4年(1618)に完成し、上堰がおそく14年後の寛永9年(1632)に完成した。

下堰の開墾当時は「湯野堰」と呼んでおり、上堰は、その水源となった穴原の地名からはじめは「穴原堰」と呼んでいたのである。

 

 しかし、近世の文書の中には「上下堰」の名もあって、二つの堰を管理するために、高地に灌漑する穴原堰を上の堰、川下から取水する下の方を灌漑した湯野堰を下の堰と呼んだことに由来すると考えられる。

明治28年(1895)には、「伊達郡上下堰用水路普通水利組合」と名づけられ、「上下堰」が正式な名称となった。その後、昭和4年3月、法の改正と同時に組合名が「伊達西根堰普通水利組合」と改められ、二つの堰の総称として「西根堰」となったのである。

 

 しかし、西根堰の名が昭和になってはじめて考え出されたものではなくて、人びとの間には、上堰下堰二つの堰を合せてよぶ場合に西根地方をうるおす堰と受けとめられていたもので、西根の堰と理解されていたものである。それは、明治18年(1885)に西根神社を湯野村(いま飯坂町湯野)に建立するに当って、その創立趣意書には郷社として西根神社を創建すことがのべられていて、上下の二つの堰は西根の地をうるおす堰、西根の堰と考えられていたといえる。

 

(出典:「福島市の文化財 福島市文化財調査報告書第29集 昭和62年3月 福島市教育委員会」)


開削者開削者

古河善兵衛重吉(1576年(天正4年)~1637年(寛永14年))

 古河善兵衛は、開削当時は上杉景勝の臣でしたが、 父は小笠原九郎左衛門重成といって、初め武田信玄に属し、信濃国更級郡塩崎の城主でしたが、武田信玄の子勝頼は、織田信長に攻められて、天正10年(1582)3月、天目山の合戦で敗れ、主家滅亡してから、姓を古河と改め、上杉景勝に仕え、慶長元年9月3日暝す。

 この時善兵衛丁度20才でした。そして、古河家を相続し、名を重吉と改め、善兵衛を称しました。慶長6年(1601)正月、上杉氏会津移封の時、重吉、信夫、伊達二郡の郡吏任ぜられました。

 

佐藤新右エ門家忠 (1573年(天正元年)~1637年(寛永14年))

 奥州藤原氏家臣、信夫庄司佐藤氏の末裔といわれています。

 西根郷の郷士として上杉氏に仕え、対伊達氏との「東北の関ヶ原」合戦にも参加し、手柄を挙げています。また、戦後処理として、上杉領から逃散(耕作放棄して他領に逃げ出すこと)した百姓を帰還させる交渉に取り組みました。 

 伊達西根郡役として初期米沢藩の地域支配に参画、西根下堰及び西根上堰の開削に尽力しました。


宍戸 左行筆 (ししど さこう)

西根堰開鑿の図

土地改良区 所有

1888-1969 大正-昭和時代の漫画家。 

明治21年11月5日生まれ。44年渡米し,洋画,漫画をまなぶ。帰国後,「東京毎夕新聞」に政治風俗漫画を連載。昭和5年から「読売サンデー漫画」に連載した「スピード太郎」で注目される。戦後は水墨画を画いた。昭和44年2月3日死去。80歳。福島県出身。福島中学卒。本名は嘉兵衛。 


 

 「両堰慣行實記」には、堰の由来、かんがい面積や番水の時間割等の申し合わせの取り決めが記載されています。

 この付図には、堰の路線や関係する村が色分けされている。「両堰慣行實記」は各村の総代に配布されました。

 付図は、明治初期の西根堰と村の配置及び路線状況がわかる貴重な資料です。

※土地改良区において一部説明を加筆



下堰頭首工の変遷

 自然流下の方式で掘り下げて作られ、水路の護岸の石積が今も残されており、本施設において唯一護岸の状況が残っています。

 明治25(1892)年に摺上川の洪水により河川の流路が蛇行し、取水口を上流に移動しました。

未完の明神の樋越し

 明治40年に老朽化した持越(掛樋工)の改修を計画しましたが、他の工事への支出を優先するため、レンガ造りの持越は、工事が見送りとなりました。構造図、見積書まで作成した資料が残っています。

上堰頭首工周辺

 旧取入口は、現在の摺上川(取水河川)河床から3m余の高い位置にありました。現在は、コンクリートの水路に改修されています。コンクリートで巻立てされていますが当時の素堀の遺構をみることができます。

 「鼻毛の隧道」と呼ばれる短い隧道も残っています。



選奨土木遺産ポスター

上堰旧取水口(福島市)    上堰用水路(国見町)



西根堰の歴

開削400年

選奨土木遺産認定

選奨土木遺産


西根堰に関する主な参考文献・資料等

 

【県・町史】

福島県史第2・3・10巻上

福島市史第2・3・9巻

福島市史資料叢書 第88号

桑折町史第1・2・4・6・7巻

国見町史第1・2巻

梁川町史第10巻

長野県 更科郡史

 〃  三水村史

 

報告書・機関紙】

福島市文化財調査報告書第29集

福島市埋蔵文化財調査報告書第93集

長野郷土史研究会機関紙「長野」第162号

伊達西根堰土地改良区「西根堰の歴史」

    

【元桑折町史編纂室 文書など】

栗花信介家文書    佐久間広助家文書

佐藤正夫家文書    氏家武兵衛家文書

大字北半田文書    早田伝之助家文書

佐藤忠義家文書    小野十一家文書

亀岡正元家文書    無能寺文書

紺野哲男家文書    氏家宏家文書

大槻一雄家文書    大字下郡文書

松野庄兵衛家文書   鈴木文七家文書

鈴木三元家文書    桑折町教育委員会文書

    

その他】

松原寺文書(福島県歴史資料館所蔵)

伊達西根堰土地改良区文書

国見町大字森山区文書

国見町大字大木戸区文書

※上記の文献等は、選奨土木遺産認定における調査のため、平成22年当時の名称です。